企業文化の醸成と社会的ジレンマ

この記事は2003年頃(35歳のとき)に書いたものの転載です。物価、社会情勢等は当時のままですのでご了承ください。

●日本において、全員がバスに乗れば渋滞が無くなる。
排出される二酸化炭素も減る。
このことを誰もが知っているのに、ほとんどの人がバスに乗ろうとせず、マイカーを使いつづける。

フィリピンにおいて、全員がきっちり税金を納め、役人がそのカネを懐に入れなければ、国がよくなるだろう。
このことをみんな知っているのに、誰も税金を払わない。

ダイナマイト漁をやめればいずれは魚が増え、豊かになる。
しかしダイナマイト漁はなくならない。

なぜ、分かっているのに実行しないのかというと、自分ひとりだけ実行に移したところで何の効果もないだけでなく、自分だけ損をすることが目に見えているからである。

これを社会的ジレンマと呼ぶ。
社会的ジレンマと呼ぶには、固く言えば3つの要件がある。

1:各個人は協力か非協力のどちらかの行動を必ず選ぶこと。
2:協力しない方が、その人個人にとっては利益があること。
3:ところが全員が非協力的だと、集団にとって不利益となること。
  (全員が協力すれば、全員にとって利益となる)

これらを満たす時、「それは社会的ジレンマだね」ということができる。

社会問題はこの社会的ジレンマにあふれており、その解決は非常に困難であるとされている。

その困難さは、お説教や思想教育では何ともならない点にある。お説教をしたところで、「そんなことはわかってるよ。みんながやれば俺もやるさ」と言われて終わりだ。

●ここで税金の問題に着目してみる。

ここに人口が10人の国を仮定する。

実は、「何が何でも税金を払わないぞ」と思っている『筋金入りの利己主義者』は1人しかいない。他の9人は「他の人が払うなら、俺も払うよ」と思っている。ただし、他に何人が払えば自分も払うのか、という点で、それぞれ考えが違う。

それぞれの考えを調査したところ、次のような結果になったとする。

何が何でも払わないという人が1割(筋金入りの利己主義者)
2割の人が払うのなら、自分も払うという人の総計が1割
3割の人が払うのなら、自分も払うという人の総計が3割
5割の人が払うのなら、自分も払うという人の総計が6割
6割の人が払うのなら、自分も払うという人の総計が7割
7割の人が払うのなら、自分も払うという人の総計が8割
8割の人が払うのなら、自分も払うという人の総計が9割
このような国で、税金を払う人の数の初期値が5割だとすると、それに賛同して6割の人が税金を払い始める。すると、さらにそれに賛同して7割の人が税金を払い、次々に協力者が現れ、結局筋金入りの利己主義者を除いた全員が税金を払う状態に落ち着く。

ところが、初期値が2割だとすると、賛同者はたったの1割なので、その状態から抜け出すことが出来ない。抜け出せないどころか、賛同者が1割なので1割の納税というところに落ち着いてしまう。

●フィリピンの税金問題は、諸々の問題もあろうが、初期値がすでに低すぎる状態であり、本来、「他に納税する人がいれば俺も払うのに」と思っている人を払う気にさせることが出来ない状態であるといえる。税金を払えば国がよくなることは、全国民が理解しており、いまさらそれを教育したところで意味が無い。

さて、この1割という初期値を強制的に5割に上昇させる唯一の方法は、教育や説教ではなく、「アメとムチ」いわゆる権力による強制力であるとされている。フィリピンで言えば、独裁者の出現だろうか。

一旦、5割まで持っていってしまえば、強制力を取り除いても、あとは放っておいても理論上は9割まで一直線に上がっていく。

●このことは、企業文化の醸成においても示唆が多い。

会社の中であることを達成させたいのだが、達成できない。
そのときに、依然として、教育・お説教が必要な段階なのか。
もしくはその段階はすでに過ぎていて、もはや権力による強制力が必要なのかという判断である。
そしてさらに、その強制力をいつ撤廃するか、という判断だ。
(ただし、社会的ジレンマに該当する案件に限る)

●上記のような「どれくらいの人が協力すれば、あなたも協力しますか」というアンケート結果の分布は、先進国諸国ではそれほど変化が無いといわれている。つまり、特に利己的な人間ばかりが集まった国があるわけではなく、構成員はどこも同じようなことを考えているといわれている。

ところが、フィリピンの場合、「内部に非常に協力的で、逆に外部に非常に冷たい」という国民性が、悪循環に追い討ちをかけている。

彼らの生活を見ていると分かるように、家族や会社などの自分の所属する集団=顔の見える相手=に対しては非常に協力的であるが、一歩外を出た、隣のグループ、隣の会社、隣の家、などにははっきりと一線を引き、「知らぬ存ぜぬ」「非協力的」いう態度をとることがよくある。

つまり、達成せねばならない初期値が、集団内部の場合は非常に低いため実現が非常に容易であるが、外部の話になると非常に高く、よほどの独裁者でも出現しないかぎりどうにもならないのではないかと思われるのである。