フィリピンはチームワークの国

この記事は2003年頃(35歳のとき)に書いたものの転載です。物価、社会情勢等は当時のままですのでご了承ください。

●フィリピンに来たばかりで、わけも分からず必死になっていたときは、あまりにスタッフに対する要求が多すぎて、何を一番守ってほしいのか、なんてわからなかった。
ところが、3年半くらいたった頃、ある一つのことに気づいた。
「この国ではチームワークさえ保てれば、あとは全部ついてくる」
ということだ

●例えば教育。
今でも、「フィリピン人は自分の知識や経験を、他人に教えたがらない。教えることは自分の立場を危うくするからだ。」などと、したり顔で言う日本人は存在する。
こんなことは全くのでたらめだ。
例えば、あるスタッフが、ある作図のテクニックを知らなかったために、作図に想定した以上の時間がかかったり、ミスとなって露呈する場合がある。
この時、その大事なことを知らなかった者自身は無罪放免とする。
しかし、教えるべき立場だった者(リーダーや、隣に座っている先輩格の者)
はA級戦犯確定だ。
「おい」
「はい!」
「こいつに教えろ」
「あ、はい!」
これだけで「教えろ」と命じられた者は、青い顔をしてサササと横に行き、教え始める。
「教えないと、俺はすげえ不愉快だぞ」と言うことをわからせる。前回で言うところの卵の白身の部分の植え付けだ。
こんなことを続けると、職場では常にコーチングしている光景が見られるようになる。ぱっと事務所を見渡すと、常に総人数の1割ぐらいが別の誰かにコーチングをしているくらいだと、とても気持ちがいいものだ。
(コーチングとは関係ないかもしれないが、仕事中に立ち上がっている人間の数が多いと、なぜか安心する。)
仲良く教えあう。手の内を出し合う。これがチームワークの第1の効用だ。

●チームワークの重視により、失敗を他人のせいにすることがなくなる。
「なんだ、こりゃ。ここんとこ全然なってないじゃないか!」
と図面の間違いを指摘したとする。
普通、外部のフィリピン人や、入社したてのスタッフだと、平気でこんなことを言う。
「あ、この部分はボクじゃなくて他の人が書いたんです。」
この瞬間に、血管が3本、音を立てて切れる。
「誰が書いたかは聞いてない。関心も無い。」
「メンバーの間違いはお前の間違いだ。」
「成果品はチームの成果品だ。個人の成果品じゃない。」
「2度と、『別の人がやった』と言うな。」
「・・・・はい」
これでもう「俺は関係ない」的な発言は一切、出てこなくなる。
実際にはこういう場面は、立ち上げ初期の頃に2回あっただけだった。
非常に面白いことに、今では逆に「これは誰が書いたのか?」とリーダーに聞いても、「いえ、なんとかします」と、なかなか名前を教えてくれなくなる。
フィリピン人は基本的に、実名を挙げて誰かを批判したり、仲間を売るようなことはしないので、『人のせいにしない』と言うことを教えるのは容易であると思う。
人のせいにできないと言うことは、他人の間違いを自分の間違いとして考えるようになるということだ。

●チームワークの向上は、そのまま品質やスピードの向上につながる。
10階建ての建物の図面を4人で手分けして24時間で終わらせ、しかも食い違いの無い図面にするには、非常に高度なチームワークが要求される。
通り芯、外壁、ELV・階段周りを1人が書き、それを残り3人にばら撒く。作図しながらも、お互い重複したパーツを書かないように、あるいは、同じであるべきパーツが、書き手によって異なった表現にならないように、かなりのコミュニケーションが必要になる。
こういう時は、さすがのフィリピン人もヘッドフォンなどしていると仕事にならない。
つまり普段から良好なチームワークがないと、スピードも品質もままならないということだ。
たまたま我々の業務がそういう仕事なのかもしれないが、どんな職種であれ、チームワークを必要としないような仕事は無いと思う。。
戦時中のように、陸軍と海軍が、ダイムラー社から別々にエンジンのライセンスを買うような非効率があってはならない。

●最後に、「チームワークを守ろう」というのは非常にフィリピン社会にマッチしており、実行が簡単であり、なんとなく暖かい感じがする。
大家族でやっていることをそのままやればいいだけのことだ。
クリスマスパーティでのプレゼンテーションでのチームワークを仕事に応用するだけだのことだ。
そして、ちょっとデキのわるいスタッフでも「チームワークさえ守っていればいいんだ。それなら俺もできるぞ。」と安心して仕事ができる。
事実、デキが悪くてもチームワークのいいやつは、使える。