フィリピン人マネジメントに理念が必要な理由

この記事は2003年頃(35歳のとき)に書いたものの転載です。物価、社会情勢等は当時のままですのでご了承ください。

●日本ではゴミのポイ捨ては一応「悪」と教育されている。
フィリピンでは、ゴミのポイ捨ては「悪」でもなんでもない。
日本では嘘をつくことは「悪」と教育されている。
フィリピンでは、方便的な「嘘」は日常的に使われる。
日本では言い訳は「悪」と教育され素直に「ごめんなさい」と言うのが美徳とされている。
フィリピンでは、言い訳は日常的に使われ、「悪」とは考えられていない。
(そもそもあれが言い訳だとは私には思えないが。。)

●このように書き連ねていくと、いかにもフィリピンが不道徳でどうしようもない印象を受けるのだが、実は逆の例もけっこうある。
日本では子供に手を挙げたり、他人の子を叱りつけたりすることは教育の一環である。
フィリピンでは、子供に手を挙げることは、言語道断、警察沙汰。
他人の子供を叱ろうものなら、それは事件だ。
(私は子供が走り周っているところでは、変な疑いをかけられないように、日本の満員電車よろしく、両手を挙げてバンザイで歩く。)
日本では車椅子の人やお年寄りが困っていても見てみぬふりをする。
フィリピンではごく自然に手を差し伸べる文化がある。

●今ここに挙げた「子供」「弱者」の他にフィリピン人が絶対的に守っている
価値観にはどういうものがあるだろうか。
「家族最優先」
「誰かを仲間はずれにしない」
「皆で分かち合う(シェアの精神)」
「困っているときは皆で助け合う」
なんとなく「家族」という姿に共通した項目が多いことが分かる。
どんな日本人でも、フィリピンでなんとなく暖かい気持ちで過ごせるのは、多分こういうところからきているのだろうと思う。

●さて、それ以外の部分ではどうなのかというと、フィリピン人には「こうすることが正しい」というような絶対的価値観が全く無いような気がする。
前述した核となる家族的な行動規範を「卵の黄身」とすると、「白身」の部分は成人であっても無色透明で、その時々に自分が仕えるボスの考え方次第で、白くもなり、青くもなる、という感じだ。

●この無色透明の白身の色を決めるために、リーダーとなる日本人は自分の考え=「理念」をはっきりと打ち出さねばならない。
「俺は赤が好きだ。みんな赤くなれ!」
と言う具合だ。
つまりどうしても時間を守って欲しいのならそれをはっきりと、言葉で伝える。「そんなの言わなくてもビジネスのマナーじゃないか。」と言う人は、日本しか知らない人だ。必ず、言葉にして言わなくてはいけない。
整理整頓が最優先だ、と思うのなら、それも言葉にしてハッキリと伝える。
そうしないと、フィリピン人は無色透明の白身をどう変化させていいか分からない。フィリピン人のためだと思って、「自分はこういうことが嫌いで、こういうことを大切にし、きみたちにこういう風になって欲しい」とことあるごとに自分の理念を叩き付ける必要がある。

●というのは簡単なのだが、これがなかなか難しい。そしてけっこう恥ずかしい。
例えば、時間厳守。これを大切にしたいと思えば、なぜ時間厳守が大切なのかを簡単に分かりやすく説明することが出来なければならない。「時間厳守なんてあたりまえだ」ではとにかくダメなのだ。
もし万人に納得される説明をすることが出来なかったら、その理念はクズだ。
だから難しい。
私も先日、この4年間で初めて「理念」っぽいものをスタッフに伝えてみた。