社内にカルトを作れ

この記事は2003年頃(35歳のとき)に書いたものの転載です。物価、社会情勢等は当時のままですのでご了承ください。

●私は建設会社所属なので、中東など海外の建設現場を渡り歩いてきた所長の話を聞くことがたまにあるが、所長達のなかでフィリピン人の評判はすこぶる高い。
中には、どの国へ行く時も同じスタッフを抱えていく人もいるほどである。
なぜならフィリピン人はとても素直で、ひとなつっこく、明るく、陽気で、指示に従順に従うし、裏表がないから、一緒に仕事をしやすいからだ。
私にとって一番、ありがたい、と感じるフィリピン人の資質は、良く言えば「笛吹けば踊る」、悪い言葉だと「洗脳されやすい」という部分である。

●フィリピン人の大脳は、シワが比較的少ない状態であり、これからどんどん、大脳に刻み込んでゆく状態のように思う。受けてきた情報や、刺激がまだ圧倒的に少ないので、新しい情報や刺激に、かなり敏感に反応する。
つまり、日本人と同じ物を見たり聞いたりした場合、日本人の3倍の強さの反応が返ってくる。
企業がフィリピンに進出する場合、普通どこの会社でも、「なぜフィリピンか」という問いに対し、「英語が使える」「教育レベルが比較的高い」「日本に近い」などと説明用資料に書き連ねるのだが、このような理由を全部集めても、このフィリピン人の「洗脳されやすさ」がもたらす影響には到底及ばないであろう。

●この性質は、仕事を行う上で、大変大きなメリットとなりえる。人間がひとたび「洗脳状態」になると、普段潜在していた力が、顕在化するからである。言葉を変えれば「熱狂状態」「狂った状態」といっても良い。私は「カルト」であるべきだと思っている。フィリピン人を狂わせ、カルトをつくり、自分の信者に出来る日本人こそが、フィリピンに必要な人材である。(こんな人材は当然、日本でも必要だろうが。。。)

●私はフィリピンへは2度目の赴任であるが、1回目の赴任時に、初めてこのフィリピン人が「狂った状態」を目の当たりにした。
まるでうだつの上がらない当時の所長と交替で、ある人物が所長としてやってきた。この人物がすごかった。
到着するや否や、事務所のレイアウトを変え、組織を変え、ことあるごとにスピーチをし、強烈なメッセージを繰り返し繰り返しぶつけた。ダメな者は、部屋に呼んで大声で怒鳴りつけるが、その直後には大きな声で笑っている。「俺はお前らの得た収入はお前らに還元する!そのかわり俺の要求には全力で応えろ」と明言し、事実、企画の仕事は徹夜させてでも翌日、少なくとも3日後には持っていく、というスタイルを貫いた。実際、ボーナスも上がった。(ただし、ボーナスを増やすだけで基本給はほとんど変わらなかったのに、渡し方が非常に巧妙なので、ほとんど全スタッフが、給料が倍増したかのような錯覚を受けたのである!)
演出もうまかった。他部署の日本人と言い争いをする時は、わざと自分の部下に聞こえるような場所で大声でやりあう。お前達のボスは強いぞ!というところを見せるわけだ。
またその人物は、フィリピンに来る前に私に「俺がそっちに行くまでにこれを読んでおけ」と本を送って来た。普通、交替でやってくる所長というものは、最初の自己紹介で「えー、まだ右も左も分からないので、皆さんのお力を借りて頑張っていきたいと思います」とかなんとかいうわけだが、その人の場合は来る前からもう戦いが始まっていたわけだ。(私が思うに、右も左も分からない所長などは来なくていい。ビジョンをもった人だけがくれば良い。)
さて、羊のようなフィリピン人たちが狼にかわるまで、1ヶ月とかからなかった。目の色が変わり、空気が変わるのは、本当に一瞬だった。卑猥な冗談ばかりを言っていた下劣なスタッフ達が、一心不乱に仕事に打ち込むようになったのである。私自身も、「こういう世界があるのか、仕事とはこういうものなのか」と初めて感じた。
このようにフィリピン人は強いメッセージを発信する人”のみ”に対しては、ものすごい速さで強烈な反応するのである。

●私には到底その人の真似はできない。しかし、伝えたいメッセージだけは山ほどある。私が彼らに何かを言う時に、よく使う方法は
「日本や中国とあからさまに比較する」「他のスタッフとあからさまに比較する」「数字で指示する」「船や家族にたとえる」「YESかNOかで聞く」「これをやると具体的にどういうことが身に降りかかるかを伝える」「とにかくわかりやすく」「説明は短く」

アジア諸国とあからさまに比較する

「お前ら、中国やベトナムに負けてもいいのか?」「君達は、今、試されてんだよ。うまく行かなかったら、俺は中国へ行くから構わないけど、お前らはそれでいいのか?会社をたたむのなんて、簡単なんだよ。」「フィリピン人は全然ダメです、中国の方がいいでしょうって、レポート書いて日本に送っちゃうぞ。いいのか?」
経費節減のためにフィリピンに進出する企業は、すでに中国やインドネシアにも進出しているか、あるいは、一度は進出を比較検討してきたはずであるから、「だめなら撤退」と言う言葉は脅しではない。
ここで、やる気のあるフィリピン人なら、「俺達フィリピン人のすごいところをみせてやる!」と発奮する。
ダメなフィリピン人は、「またなんだか説教を言っているよ、早く帰りたいなぁ」と思うのかもしれないが、意外なことに、そういうフィリピン人はあまりいないものである。

日本と比較する。

「日本のCADオペなら、この指示だけで書けるよ。」
日本と比較することは、大変に効果がある。
なぜなら、フィリピン人は日本の車やデジカメのことは知っていても、いわゆる普通の日本人の普通の社員がどういう仕事振りをしているか、全くイメージが無い。そこで、
「日本人の普通のCADオペだったら、これは3時間だな。」「日本人のプロのCADオペが、こういう間違いをしたら、もう会社に来られないな。それほど恥ずかしい間違いだな、これは。」
などと具体的に言ってやると、”先進国日本”のレベルをナマに伝えることが出来る。また、「日本とはいえそんなにかけ離れているわけでもないんだな」と言うことも分かるわけだ。
逆に
「これは日本人には出来ない、お前らだけだよ、出来るのは」「この図面は日本でもトップクラスだな」
というような言葉も、彼らはとても喜ぶ。どうせ褒めるのなら、褒めるときにも比較をして褒めてしまえば、威力も倍増と言うわけだ。
とにかく見えない相手があたかもそこにいるかのように、ぶつけてしまうのだ。

他のスタッフとあからさまに比較する

「あいつは、ここまでやって持ってきたよ。」
社員同士というのは、席が離れていると、もうどんな仕事をしているかよくわからないのが普通だ。特に、ポジションが同じレベルの者同士というのは、一緒に仕事をすることが無いから、相手がどれくらいのレベルなのかと言うことを知るのは、およそ不可能であるといってよい。日本の会社でもこのことはあてはまる。AにはBを引き合いに使い、BにはAを引き合いに使う。お互いが、「あいつには負けんぞ」とやる気を出す。
ただし、フィリピン人は不思議なもので、圧倒的な差がついてしまうと、なんだかんだと理由をつけて勝負をあきらめるところがある。
例えば、Aがめちゃくちゃ作図が早く、Bが遅いとする。このとき、Bに対してAを引き合いに出しても「あいつは学生のときからやっているから」とか「あいつは家にパソコンがあるから」とか理由をつけてあきらめてしまうので、比較するときは同じレベルくらいの者同士でないと意味が無い。

数字で指示する

とにかく具体的であること。
次の2つの方針を比べて、どちらが分かりやすいだろうか。
「高い品質をめざそう!」「ミスは図面1枚に1個まで!」
もちろん、下の方が目標としてはストレートで分かりやすい。幼稚っぽい表現でもいいから、分かりやすい目標の方がフィリピンにはいい。
以前、ある映画の射撃訓練の場面でも書いたが、数字を使うことの重要性は、どんな経営書にも書かれている。抽象的な目標や指針は、フィリピン人の心には「全く」響かないが、具体的な数字を挙げると、とたんに目の色が変る。
なぜ数字を挙げるといいのか。
それは覚えやすいからだ。
覚えやすいと言うことは、人に伝えやすい。
「間違いは1個まで」と日本人から言われたリーダーは、自分の部下に「おい、1個までは許してやる。2個目はアウトだからな」と言えるわけだ。それを聞いた部下は、2個の間違いがないように、一生懸命チェックする。
しかしながら、具体的で明解な目標を打ちたてることのできる日本人というのは、これまた非常に少ない。なぜか、回りくどく抽象的になってしまうのは、日本人の性なのだろう。

船や家族にたとえる

フィリピン人というのは、自分達を船とか家族とかにたとえるのが結構好きだ。
「俺達は、みーんな同じ船に乗っかってるんだ。お前たち、この船を沈めたくはないだろう。助け合わないと、船ってのは沈むんだよ。」
まるで、20年前の青春ドラマのようなせりふだが、こういう話をすると、フィリピン人にはものすごくストレートに伝わる。中には、眼をウルウルさせるやつもいる。
こんな簡単な一言で、フィリピン人というのは目に見えて変化する。

船のほかには、家族というのがある。
例えばこんな感じだ。
「お前とお前は、このファミリーのお父さんとお母さんだろう。助け合わないでどうする。家族がバラバラになってもいいのか。お前達は一つの家族なんだぞ。いがみ合っている場合じゃない。」
そうすると、
「そうだ、俺達は家族だ。よくわかった。これからは2人で助け合う。」
と、けっこうすんなり納得してくれるのである。
同じ内容でも
「お前はリーダーだろ、で、お前はサブリーダーだろ、サブリーダーはリーダーをサポートし、リーダーはああして、こうして、うんぬんかんぬん」「カンパニー・ポリシーにはこう書いてあるから、こうしなきゃダメだ」
などどいうより、はるかに分かりやすいし、暖かい感じがして、いいではないか。

こういった、船とか家族とかいう言葉を使うことにより、高いレベルのチームワークを実現したいだけなのであるが、日本人では、なんとも感じないようなクサい言葉でも、彼らは非常に洗脳されやすいので、かなりストレートに揺れるのである。

フィリピン人はキリスト教徒が多く、日曜日には教会へ行って、神父さんのお話を聞く。私には何を言っているのかわからないし興味が無いので横を素通りしてしまうのだが、多分、あーしなさい、こうしなさい、のような説教めいたことを話しているのではないかと思う。
思うに、フィリピン人は、人の話に耳を傾け、それを受け入れる訓練が小さい頃から出来ているのではないかと思う。
また、フィリピン人は明らかに格言好きである。私の会社の入っているビルのエレベータには、いつも誰かの格言が貼ってある。
「的よりも高いところを狙わないと、的には決して当たらない。                        By だれそれ」
というような感じだ。誰が貼っているのか知らないが、毎週変わる。
ナショナルブックセンターに行くと、レジの前に小さな本が積んであり、手にとって広げると、1行か2行の格言が書いてあったりする。(近くのスタッフに聞いてみたら、Daily Bread とかQuotes というのだそうだ。)また、パソコンのデスクトップの背景に、格言みたいなものを表示させているものもいる。
このようにフィリピン人は、常に心の拠り所みたいなものを求めている。自分を揺さぶってくれる人を探している。
家庭に父がいて、世の中にキリストがいるように、会社にも自分の指導者を探す。そして自分とその指導者がピタっとはまると、急激に実力が伸びはじめるのである。合わなければ去っていく。
日本人は、「自分こそが指導者だ」と感じたその日から、暴走するくらいの勢いで突っ走ってよい。そして、「自分教」というカルトを作り、信者を増やすのだ。日本人は遠慮深い国民なので、他の日本人がいる前で、自分一人の考えを、あたりにまき散らすのを必ずしもよしとしない傾向があるが、この国では例外だ。
フィリピン人は、上司から送られるメッセージを今か今かと待っているのである。