フィリピン人従業員に適宜判断させることの難しさ

この記事は2003年頃(35歳のとき)に書いたものの転載です。物価、社会情勢等は当時のままですのでご了承ください。

●優秀なフィリピン人の部下に対する私の不満は、「もう少し自分で適当に判断してやってくれたらなぁ」ということ。
図面を書いていて、一番多い質問が
「この平面図とこの断面図が食い違っています。どちらが優先ですか。」
「建具リストの寸法と平面詳細図のサイズが違います。どっちが優先ですか。」
私は最近、この質問に、かなりイラついている。
聞かれたら答えるしかないので、適当に「こっち」とか「あっち」とか答えてしまうわけだが、本当にどちらが正しいかなど私にもわからない。ただ、その場で適当に決め打ちしているに過ぎない。答えておきながら「そんなもん、どっちでいい。どっちかに決めてやってくれ」とついつい思ってしまう。
かといって、こういう細かい質問を発注者にいちいち質問はしたくはない。発注者は非常に忙しいし、まずは適当に判断して書いて、あとでまとめて調整する方が、効率的だ。
そもそも発注者自身にもよくわからないことがほとんどだ。

●フィリピン人には細かいマニュアルが有効であるが、これは「自分では判断できない」ということの裏返しである。判断ができないし、したくないので、マニュアルというよりどころを欲しがる。

●組織が発展途上のうちは、マニュアルに従ってもらえるようになるまでが一苦労であり、それが達成すればまずは7合目と言えるのかもしれないが、しかしその中のマネジャー的役割を担う者には、いつかはマニュアル一辺倒の域を脱してもらわなければならない。
だが、この「判断を下す」というのは、ものすごく難しい。
「判断の下し方」を教えるのはもっと難しい。
設計図を作図するなら、設計の経験が無くては無理だろう。
施工図の作図をするなら、現場の経験が無くてはどうにもならない。
できのいいただの作図者で終わるか、作図を指示するマネジャー的存在になれるかは、この点で大きな差がある。

●そしてもう一つ、オペレータークラスで言えば、適当にザクザクとした作図をすることが非常に苦手。
例えば展開図。
建築の展開図なんて、それを見てドアの位置を施工するわけではないから、多少、ドアの位置が違っていようが全く構わない。大切なのは、展開図でなければ表現できないことを確実に表現することであって、ドアの位置が平面詳細図とちょっとずれていようが、あまり影響は無い。
ところが、展開図を平面詳細図にあわせて修正、という仕事をやらせると、まず間違いなく、全ての部屋の全ての見え掛かりの線を平面詳細図から投影線をひっぱってきて位置を調整する。つまり、10ミリのずれでも修正をかけるのである。
だから、私が希望する時間よりも長い時間がかかってしまうことがある。
なぜこんなやり方を好むかというと、判断が介入する余地の無い単純作業であるからだ。
彼らは、こういった単純作業を非常に好む。
(いわれたことをただひたすらやることを好むこの不思議な国民性に関して、「歴史的に植民地だった期間が長いから、統治者の言うがままに行動するのが得策という概念が染み付いている」といういわゆる植民地理論はよく聞かれるが、抽象的すぎてホントかいな、と言う気がする。
つまりは学校や親が、思考や判断を排除した教育しかしていないのではないか。
先生のレベルが低い。
先生の給与が低いから、いい先生がいない。
給与が低いのは、国にお金が無いから。
お金が無いのは、思考・判断力に欠けているから!??
こうなるともう、卵ニワトリで、どれが原因で結果なのかよくわからなくなる。)

●展開図の修正の話に戻ると、本来ならば、紙の上で大きく異なるところを赤ペンでチェックし「そんなに違っていない部分はそのまま」にしておく、というラフなやり方でやって欲しいのだ。
ところがフィリピン人は「そんなに違っていないとは何ミリ以下の場合なのか?基準は無いのか」とくいさがるだろう。なるべく判断を介在させたくないのである。
実はここで私の血管は切れてしまっている。しかし「そんなもの自分で判断しろ」と言ってしまっては、いままで精度を要求してきたことと矛盾してしまうので、ぐっと我慢である。

●ここの国民は、いい加減なのか、いい加減じゃないのか、本当によくわからない。
私が「セルシオではなくカローラをめざせ」と言っているのはなんだか夢がないようであるが、こういった判断を嫌うところや、融通の利かなさにフィリピン人の限界点を見てしまっているからだ。(もっとあるけど)