数字を見るな、人を見ろ

この記事は2003年頃(35歳のとき)に書いたものの転載です。物価、社会情勢等は当時のままですのでご了承ください。

●先日、フィリピンの事務所に、本社の副社長(現地の副社長ではなく、従業員17000人の本社の副社長)が来た。どこかの竣工式か何かのついでに時間を見つけて、われわれのやっている海外アウトソーシングの現場を見に来たらしい。今回が2回目だ。
私は、副社長の前に座ったら何を口走るかわからなかったので、副社長が来る前に自宅にとっとと帰り、独りで謹慎していた。(つまり、本当のことをどんどんしゃべって、いろんな人の人生を狂わせる可能性があったので、ひっこんだ)

●この副社長が短いながらも事務所の視察を終えて、日本へ戻り、周囲の人にこのようなことを言ったらしい。
「A部門は数値目標も持っているようだし、なかなかいいじゃねえか。スタッフの目も輝いているな。B部門はスタッフの目が死んでたな。C部門に至っては論外だ。本気でやる気があるのかね、あいつらは。」

●私が3年前から立ち上げてきたのは、「スタッフの目が輝いている」と評されたA部門だ。
私はこの副社長の発言を人づてに聞いたとき、嬉しくて目が潤んでしまった。
俺が目指してきた組織作りもそんなに間違いじゃなかったんだな、という思いと同時に、その副社長が、スタッフの「目の輝き」の違いに気づいたことに感動してしまった。
今まで目の輝きなんてものに言及した人など、私の会社には全くいなかったのだ。
特に、最近、B部門やC部門の人々から、私のA部門が時間にだらしなく目の敵にされていただけに、失いかけた自信をちょっと取り戻した。

●私はフィリピンにいる間に、エセ経営者を何人も見てきた。
一日中、机に座ってエクセルの収支予測表を一日中眺め、今月は足りないだの、来月はでかいのがはいるから安心だ、などと一日中言っているエセ経営者。
5年後の収支予測といっても、ものさしで傾きaの直線を、5倍の長さに伸ばすだけ。「どうせそのころは俺はいないけどね」と思っているから、どんな線でも引いてしまう。
仕事が忙しくなって人が足りなくなったら、右から左に駒のように人を動かしてその場を繕い、それを『采配』と勘違いする人たち。
数分の遅刻には目が行くのに、スタッフたちがどういう家庭の事情を抱えているかに全く興味がない人たち。
私はこういう人たちのことを全て、「数字しか見ないで、人を見ることのできない人たち」と呼んでいる。
数字なんてものはメールで送ってもらえれば、日本にいようが月の上にいようが、どこでも見ることができる。でも人というのは現地にいないと見ることができない。さらに言えば、見ようとしている人にしか見えない。
どんなにITが発達しようと、全ては「人」だ。

●いつかこのメルマガで書いたように、私はリトル東京のキク富士というレストランが好きで、毎週ランチを食べに行く。ここの従業員はなぜか元気がよく、一人一人が生き生きと働いているから、それを見るのが好きなのだ。なぜか上からやらされているという雰囲気がまったくない。
私にとっての理想のチームはああいう感じなのだ。
一人一人が生き生きとしていて、ニコニコとして楽しそうで、みんな会社に来るのが楽しい。一見、仲良しクラブのような感じだが、いざというときは全員が一丸となって助け合い、絶大なパフォーマンスを発揮する。
パフォーマンスを発揮しているとき、人の目は輝くものだと信じている。